「聖なるブハラ」と呼ばれるこの街は、かつてイスラムの文化的中心地として栄えました。ブハラ歴史地区として1993年ユネスコ世界文化遺産に登録されています。
新市街と旧市街に分かれ、遺跡などは旧市街にあります。
ブハラは、タジク人が約40%住んでおり、またユダヤ人も住んでいる多民族の街です。
街の中心地には池があり、ブハラ市民の憩いの場になっています。池の周りはレストランに囲まれて、夜遅くまで賑わっています。
こじんまりとした街で、メドレセ(イスラム神学校)やミナレットが多く建ち並んでいます。
ブハラの観光スポット
リャビ・ハウズ
3つのメドレセを持つ大切な広場
ハウズとは池という意味で、ブハラ市民の憩いの場となっています。
リャビ・ハウズは、ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ、3つのうち最古のクカンダシュ・メドレセ、全寮制の学校ナディール・ディヴァンベキ・ハナカの3つの建築群に囲まれています。
かつてこの周辺はユダヤ人の村で、このラビハウズの場所にはユダヤ人女性が住んでいました。
当時の大臣ナディール・ディヴァンベギはこの土地を売って欲しかったのですが断られました。どうしてもこの土地が欲しかったナディール・ディヴァンベギは、女性の家に穴を掘って水をいれ、運河を造りました。
運河の水を家に流し始め、家は倒れ、この土地を手放さなければならなくなったという伝説があります。
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ
イスラムの教義に反する絵がある神学校
1622年にナディール・ディヴァンベギによって建てられた神学校。
イスラム教では偶像礼拝を禁じられていますが、正面には鹿、不死鳥と人の顔のモザイク風の絵があります。
当初はキャラバンサライ(隊商宿)として建てられましたが、建築現場を見に来たハーンはこれをメドレセ(神学校)と思い込み、敬虔な信仰心とメドレセの素晴らしさを賞賛しました。
あまりにも褒められ、どうすることもできずにキャラバンサライからメドレセに変更したと言われています。
チャル・ミナール
トルクメン人が建てたミナレット
チャル・ミナールとは、タジク語で「4本のミナレット」という意味。
1807年、トルクメニスタンの商人によって建てられました。
かつては神学校もモスクもありましたが、今は入口のみが残っています。
このトルクメン人がインドに修行に行った際、インド建築を非常に気に入りインド風の建物を建てました。
ミナレットは4本それぞれ異なる模様が施されています。
カラーン・モスク
ポイカロン建築群のひとつ
タジク語で「大きいモスク」という意味のこのモスクは、一度に12000人が礼拝できるモスクです。
795年にアラブ人によって建てられましたが、現在はほとんどが修復されています。280本の柱と88つの小さいドームが特徴です。ソ連時代は倉庫となっていましたが、独立後に再び礼拝する場として再開しました。
カラーン・ミナレットとつながっていて、正面に青いドームと回廊に囲まれた中庭があります。
5つの建築からなるポイカロン建築群の一つです。
アルク城
古代ブハラ発祥の地
2000年以上も前に遡りますが、このアルク城辺りが古代ブハラ発祥の地だと言われています。
紀元前5世紀に奴隷によって丘が造られ、その人工の丘の上に建てられました。時が経つにつれて城壁などがどんどんと広がっていき、日干しレンガの城壁が9世紀から、焼きレンガのの城壁が18世紀から作られました。
かつての歴代ブハラ・ハーンの居城とされて、1920年にロシア赤軍に攻略され、滅亡しました。建物の主の交替や敵からの破壊などによって、何度も建て直されましたが、18世紀に大きな改修がされています。
ロシア革命の際に80%が破壊され、20%が残っています。
チャシュマ・アイユブ廟
預言者ヨブの泉
アイユブとは旧約聖書の預言者ヨブ、チャシュマとは泉を意味しています。
紀元前5世紀、水不足で苦しんでいたところ、預言者ヨブがブハラに来てここで杖を3回叩いたら、泉が湧き出て水が飲めるようになり生活が救われたと言われています。
泉には14世紀と16世紀にドームが次々と建て増しされ、とんがり帽子型の屋根と合わせて一風変わった概観です。
近くから見るよりも、サーマーニー公園に近い場所から少し離れて見ると建物の個性感がよくわかります。
今でもこの霊廟の中に泉があり、国内の巡礼者達がこの泉の水を飲んでいるそうです。
ブハラ:マップ
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